【コレラ対策】検疫のカリスマ後藤新平が作った広島の似島検疫所

コロナウイルス

今、もっぱら新型肺炎コロナウイルスが話題なのです。

中々、これが治まらないのです。

では政府の対策はどうかと言うと?

世論では、中々適切とは言えない面もあるのです。

mojalaki
mojalaki

私は、政府の決定は良いと思ってますが、反面批判も多いですよね

ただ、首相の安倍晋三が、国民一世帯に2枚だけマスクを配るだけのアホだから何とも言えませんが。

その証拠に、安倍首相の言う事を聞くやつ以外は、あべのマスクを着けてません。

現在、日本の指導者は誰ですか?

不在ですね。

テレビやニュースを見てると、誰が首相なのか分かりませんよね。

国会が、中学生レベルの帰りの会化してるんです。

後藤新平とは?

最近新聞などで、首相の安倍晋三が役立たずなので【令和の後藤新平はいないか?】と話題になってます。

有名なコレラ対策の後藤新平。

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日)- 昭和4年(1929年)4月13日)

これは、どういう方かと言うと、後藤新平は1923年9月1日に関東大震災が勃発しました。

大正12年の事です

その翌日の9月2日に、第2次山本権兵内閣ができた時に、内務大臣兼帝都復興院総裁と言う役に就いたのが後藤新平なのです。

内閣総理大臣, 山本權兵衞. 外務大臣, 山本權兵衞(兼). 大12.9.19-, 伊集院彦吉. 内務大臣, 後藤新平. 大蔵大臣, 井上準之助. 陸軍大臣, 田中義一. 海軍大臣, 財部 彪. 司法大臣, 田 健治郎(兼). 大12.9.6-, 平沼騏一郎. 文部大臣, 犬養 毅

第2次山本権兵内閣

そこで震災復興計画を、作ったわけです。

彼は関東大震災が発生する4か月半前までに、第7代東京市長をしてたので、これはうってつけの役だと言う事で、急遽作ったわけなのです。

どんな計画かと言うと、東京の東側に被害が非常に大きかったので、その東側一帯を大規模に区画整理をします。

それで、その中に避難する時に役に立つであろう都市公園とか幹線道路を作ると言う構想だったのです。

ところが、これが大計画で13億円必要だと・・・・

その当時の13億円はどのくらい?

かと言うと1年間の国家予算だったのです。

今に当てはめてみると、100兆円位の金額だったのです。

後藤の大風呂敷と言われたのですが、全体はできませんでした。

しかし今でもその名残がある靖国通り・昭和通り・永代通り、その時の幹線道路は、その時の計画で作られたものなのです。

「靖国通り」の画像検索結果

隅田公園・浜町公園・錦糸公園など立派な都市公園もありますが、その時の構想だったのです。

実はあまり一般には、知られてないのです・・・・・・・

日清検疫

今急速に注目されるようになったのが、後藤新平が行った「日清検疫」と言われる非常に大規模な検疫を実現したと言う事なのです。

後藤新平の検疫制度

その検疫を、なぜ後藤新平に任されたかと言う背景を説明していきます。

後藤新平は幕末の安政4年、西暦で言うと1857年奥州水沢と言うところに生まれました。

水沢と言うのは戊辰戦争の時に、すぐそばの会津に味方したので明治政府から睨まれる立場だったのです。

これは出世は無いなと思われてたのですが、そこに新政府になって熊本藩主の安場保和と言う方が赴任してきたのです。

「安場保和」の画像検索結果

その安場保和の給仕にになったのが、後藤新平だったのです。

安場保和が東京へ戻る時に、後藤新平に「お前も来い」と言って連れて行ったのです

その安場保和さんは、1872年に岩倉使節団となり外国に岩倉 具視と大舞台に行くのです。

その帰ってきたときに、福島県令に安場保和がなられてます。

後藤新平も来いと言う事で、須賀川医学校へ入学してお医者さんになるのです。

その2年後に安間保一が愛知県令に移動すると言う時に、一緒に愛知県に来いと言われて、愛知県医学校に通って医師の開業免許と軍医も取得しました。

そこで、さらに立派なことで、後藤新平は自費でドイツに留学してミュンヘン大学で医学博士になったのです。

それは、33歳の時でした。

帰国したら35才だったのです。

内務省の衛生局長に就任してました。

内務省では、トップクラスのポストだったのです。

その後、ちょっと事件に巻き込まれてしまって失職してしまうのです。

その時の内務省の上司だった石黒忠悳と言う人が、これは立派な男だと言う事で、「よしお前!日清戦争から帰還する兵士の検疫をやれと」言う事になったのです。

日清戦争と言うのは1894年7月に始まったのですが、翌年の1895年の3月ごろから兵士が帰還し始めます。

その帰還した兵士を病気に罹てないかと、検疫しないといけないのです。

そこで広島に、その施設を作ると言う事になったのです。

広島県の似島検疫所

mojalaki
mojalaki

何で広島なのでしょうか?

「似島検疫所」の画像検索結果

当時日清戦争が始まって、大本営と言う、その軍隊の本が広島に置かれて明治天皇も広島に移られて帝国議会も広島で開かれる

当時の事ですが実際、広島が臨時に首都になってたのです。

もう一つは東京から鉄道を、ずっと西へ西へと行ったのですが、広島が当時は終点だったのです。

そっから先は、中々、不便だったのです。

更にもう一つ理由があります。

広島市の南端の瀬戸内海に面した、宇品港と言う港があるのです。

これが実際に、日清戦争に出征する兵士や物質が、出て行ったり帰ってくる場所だったのです。

と言う事で、そこの場所が選ばれたのです。

似島検疫所

それと同時に、ここで検疫をするのです。

何故、検疫をするかと言ったら、当時清国でコレラが大流行してたのです。

帰ってきた兵隊さんが「病気に罹てないか?」と言う事を調べないといけないと言う事なのです。

そこで4月から広島市と江田島市の間にある、似島と言う小さな島があります。

そこと下関にある彦島・大阪の傍にある桜島の3か所に検疫所を作る事になりました

そこの指揮をしたのが臨時陸軍検疫部の児玉源太郎部長と、その部下として登場した後藤新平だったのです。

この施設と言うのが中々、巨大なもので東京ドームの1.7倍もある広い土地に検疫の建物だけで54棟。

それ以外の建物は139棟と言う、大変巨大な規模だったのです。

これを、後藤新平が指揮して、突貫工事で2か月で作ってしまたのです。

当時、後藤新平が作った「検疫作業一欄」と言う図面があるのです。

これを見ると、どんな風にしたか?

輸送船がその島に到着する、検疫官が乗り込んで感染者と健康な人とを分けるのです。

感染者はすぐに病室に隔離して、病院に送り込む。

健康な人は荷物を預けて大浴場が作ってあってそこで20分間入浴して出てくると言う事です。

その間に預けた荷物を蒸気消毒室が用意してあって、簡単に言うと熱い蒸気で菌を殺すと言うわけです。

mojalaki
mojalaki

消毒するのですね

出口に兵隊さんが出てきたときには、荷物を返してくれるのです。

3か月間臨時検疫をして687隻の船と、そこに乗っていた23万2346人の兵隊さんを、全員調べたのです。

船はコレラ菌があると言う可能性がある船に、258隻は完全に消毒して結局真正のコレラ患者369人を発見して、疑似コレラ患者313人を発見して隔離して被害が及ばなかったのです。

拡大阻止、素晴らしい事になったのです。

検疫の行われた1895年には、日本国内では5万5144人のコレラ患者が発症し、4万154人が亡くなっています。

しかし、この玄関口での大規模で迅速な検疫がなければ、どれだけ増えたかわかりません

この検疫がいかに「優れてたか」と言うとす。

ここで一斉に止めた結果、その翌年からは一気にこれらの患者は数百人に減ってしまったのです。

だからこの、後藤新平が素晴らしいか、この後藤新平は世の中の事が良く分かってる人で、この立派な検疫所を作っただけではなく、所謂、世間にもピーラーる戦略もやったのです。

当然広島の人にとっては、目の前の島にこれらの検疫所ができると言ったら心配でしょうがないのです。

そこで検疫所をオープンする前日に、1800名の市民や名士を招いて中を全部見せました。

「こんなにちゃんとやるから大丈夫ですよ!」

と言う事で、皆を安心させる事もやったのです。

そんな事を考えるとコレラとコロナウイルスは少し感染力は違いますが、23万人と言えども限られた人数なのです。

やはり現在の状況と当時の状況の何が違うかと言うと、後藤新平のような非常に能力があって指導力がある人が日本の中枢に居ないのではないかという気がします。

そう言う事もあって令和の後藤新平がいないか!?

と言う事なのです。

一方、米国のCDCを習って疾病管理予防センターを作れと何なんか言います。

いくらそれを作っても、そういう指揮をする人を見つけない限り、この今の大変な状態が中々、治まらないのではないかと思います。

今現在、令和の後藤新平がいないのかと言うと、探せばいると思いますが・・・・

しかし何をやっても批判される世の中ですから、無理かもしれません。

よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ

後藤新平

コメント

タイトルとURLをコピーしました